天神さん1100年事業で新築の絵馬殿


当神社の絵馬堂は江戸末期に建設された規模の小さいものが有ったが昭和の初めに建て替えられた。今回は旧の絵馬堂を倉庫に活用して、菅公さんの事業として写真の絵馬殿が新築された。

他社でも同じだが絵馬堂の絵は雨風の影響などではく離されていることが多く、拝殿に掲げられた絵馬に比べると、かなり保存状態が悪い。以下はかろうじて残っている絵馬である。


江戸末期
絵がかなりはく離しているので見にくいが子供の疱瘡(ほうそう)除けのまじないで、源為朝(ためとも)が鬼界島で鬼を退治したと云う伝説があるが、この鬼を疱瘡神になぞらえ、為朝の武勇をもって鎮めてもらう意味である。
この絵の絵馬は奈良と大阪に見られるが民間では小絵馬に描いたのを買ってきて地蔵堂や家の前に掛けたようである。

当社には疱瘡除け(鬼弓)の絵馬は2枚有るが1枚の裏書きには「奉 子供中」と書かれている。葛飾北斎の「椿説弓張月」の挿し絵に描いた「為朝と鬼の力比べ」の図が元になっている。
明治初年
馬なども描かれた合戦の武者絵ですが画題は不明です。
役者の見立て絵ならば役者名が入っているのですが役者名は入っていない。奉納の年号は入ってないが全体的に判断して明治初期と思われる。
楠公父子別れ図
天保9年(1838年)奉納

楠木正成(まさしげ)が足利尊氏(たかうじ)を兵庫で迎え撃つことになったとき摂津桜井の駅で長男の正行(まさつら)と別れる図。総ケヤキ造りで1枚板に描かれ、絵師は「開山法眼橘邦」の銘あり。
1863年(文政3年)の河内天誅組は、この楠公精神を基として、幕府に刃を向けたとも考えられる。

西村氏子中奉納


   川中島合戦の図
川中島の合戦は上杉謙信(うえすぎけんしん)と武田信玄(たけだしんげん)の合戦で双方ともにこの一戦で勝負を決する覚悟で対戦した。謙信は軍勢がおとっているので一騎打ち作戦をいどんだと云う。謙信が黒馬に乗り刀をふりかざすところを信玄が軍配で受けている図、錦絵的な構図で描かれている。

◎明治34年の作。
他の展示物。境内から発掘された平安時代の瓦や須恵器、近くからの発掘品で円筒ハニワ.須恵器から、神社の古文書関係や民具類を展示しています。